奥貫友山と塙保已一
徳川時代に本県下に輩出した人物を挙げればその数非常に多いが中にも慈善家として奥真友山、國學者として塙保已一の二人が最も名高い。
奥貫友山は入間郡南古谷村字久下戸の人である。吉宗将軍の寛保二年に武蔵上野下野下總等開東地方一帯に大洪水の害を被り、就中利根川荒川の氾濫が一層甚だしく花のお江戸も一丈余の水に蓋はれ、荒川には死人が五十人三十人と数珠のやうに流れて来てその惨状は目もあてられぬ有様であった。友山は此の時三十八オの男盛りであったが平素倹約して貯へて置いた倉米を出して飢民を救ひ、恩沢の及んだ所は四十八箇村十一万人の多きに達した。
川越侯秋元凉朝は大いに感心して御前に召し懇ろに饗応して鷹の絵の掛軸を下された。
この頃塙保已一といふ盲學者が児玉郡保木野村に生れた。三歳の時から疳の病にかゝり五オの時に両目を失って父母の下に養はれて居ったが十二歳の夏に母を失ひ其の後は父と共に淋しくその日を送って居った。十三歳の時身の行末を考へて江戸に上り雨宮検校須賀一の弟子となり四谷に住まって琵琶や琴や三味線や鍼の稽古をしたが生れつき手先きの不器用なため何時も友達に負けて仕舞った。
元来真面口な彼はある夜に九段の牛ヶ淵に行って身投げをしやうとしたが故郷の父や死んだ母を思ひ出してやめた。この頃隣家に松平乗尹といふ人があって時々書物を読んで聞かしたから性来博聞強記の保已一はこゝに自己の進路を見出して二十四歳のとき國學の大家賀茂真淵について國學の研究を始めた。二十歳の時師匠の雨宮検校と分れて麹町の番町に住み天明三年には検校に進み後には総検校といふ盲人最高の役に上った。将軍家斉は特に謁見を許し三百坪の地を与へて和學講談所を建てしめて図書の編纂所とした。保已一が三十歳の時から七十四歳(亡くなる二年前)まで四十一年間の長い聞畢生の力を注いだのは群書類従の編纂である。正編六百六十六冊、版木は今四ッ谷寺町愛染院の境内に五間に八間の倉庫に一杯ある。続編は一千余巻の目録だけ出来たが明治に なって経済雑誌社で列行した。