畠山重忠
鎌倉幕府の創立は武蔵武士の働きによることが多い。彼の資性忠良、武勇絶倫の士として天下に知られてたる畠山重忠は大里郡本畠村畠山の産である。源頼朝が高倉天皇の治承四年に相模の石橋山の戦に敗れて房総の地に走り更に武蔵に入って兵を募った。重忠はこの時頼朝の幕下となったのである。
頼朝は厚く重忠を用ひ、宇治川の戦には五百騎を率ゐて義経に従ひ、愛馬が敵箭に斃れたから水底をくぐって進軍して大に敵の心胆を寒からしめた。又一の谷の戦には赤絲威の鎧を著て三日月といふ栗毛の馬に跨って鵯越の険坂に立つた。この時馬に向って今日は自分がお前を背負ふとて、手綱や腹帯で馬を十文字にからげ、椎の木を一本杖にして岩間を降った話がある。
此の如く至る所に奇功を奏したが、其の後あることから頼朝の怒に触れて領地は奪はれ更に干葉の邸に拘はれの身となった。然し間もなく許されて比企郡菅谷に帰った。處が梶原景時といふ悪人が、頼朝に讒言して「重忠は菅谷にあって謀反の企あり」と告げたから、頼朝は平生重忠と懇意な問柄の下河辺行平を菅谷に遣って内情を探らした。生れつき正直な重忠は大に怒り武士の恥辱であると将に腰刀を引き抜いて自殺しやうとした。行平はこれを留めて重忠と手を携へて鎌倉に行き頼朝に事の由を申して漸く疑が解けた。
重忠はこれから頼朝の信用を得て頼家の補佐役になった。然む頼朝の薨後は実権は北條時政の手にあったから、時政の親戚である平賀朝雅と争ふて,孫の重保は鎌倉に殺され、重忠は百三十余騎と共に相州二股川で斃れた。時に年四十二