埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

治水及び開墾

我が県は武蔵野といふて最初は人家も極めて少く草木生ひ茂って所謂武蔵野の駒引など行はれて居ったが徳川家康の領地となるに及んで次第に開けて今日の有様となった。然し治水事業は未だ充分に行はれなかつたから時々大洪水があって苦しめられた。徳川氏は家康以来代々の将軍が大いに心配して利根川や荒川の治水事業に力を注ぎ堤防を築くとか疏水を通ずることに努めた。

天正十八年に伊奈備前守忠次が関東郡代となって深谷領、忍領、羽生領等の潅漑を便にするために備前渠を開削し、其の子半十郎は元和の頃に栗橋町の上流二里許りの間に利根新川を開いて今日の新川渠とした。其の他荒川、入間川の合流を始め、寛永年間に江戸川,権現堂川の開削等其の事蹟は非常に多い。第四代将軍家綱の時に幕府の郡代に伊奈半左衛門といふ人があった。此の人は利根川本流の水路を開き、叉古利根川の水脈を利用して葛西用水を通じた。八代将軍吉宗の時には治水に巧みな伊澤惣兵衛を紀州より迎ひて武蔵野新田の開墾に当らせ更に見沼川水の開削を行った。此の開削は葛西用水と共に県下の二大用水事業として知られて居る。

惟ふに家康の江戸入城当時は武蔵の田地は六十七万石といはれてゐたが伊奈氏の力で百二十万石に増し伊澤氏の新田開発は約十万石の増加を見たのである。

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