埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

武蔵の諸城

足利尊氏が開東を平定すると間もなく、其子基氏を開東管領として鎌倉に遣はした。基氏は屡々兵を武蔵、上野に出し自らも数年入間川に陣して居つたから世に入間川殿といふてゐる。

基氏は入間川から一旦鎌倉に帰ったが正平二十年に苦林、岩殿の戦が起ったから再び大兵を率ゐて武蔵に入った。基氏は自絲威の鎧を着て芳賀入道と至る所で激戦して大いに勝ったが其後間もなく没した。其の子孫相次いで管領となったが持氏出づるに及んで亡びた。

鎌倉の関東管領が亡びると執事の上杉憲実が代って管領となったが、多年持氏の家来であった結城氏朝は遺子春王安王を奉じて下總の結城に兵を挙げた。叉一色伊予守は北武蔵の暴徒を集めて北埼玉郡須賀村の須賀城を襲ひ更に荒川を渡って,熊谷町の南方にある村岡河原で上杉勢と戦って破れた。其後上杉氏は義を重じて、東國の諸将と相談して持氏の子成氏を京都から迎へて関東の主人とし憲実の子憲忠がこれを助くることになったが折合かっかず、とうとう成氏は憲忠を殺してしまった。

当時上杉氏は山内家扇谷家の二軒に分れて憲忠は山内家であったから頻りに関東の兵を募って成氏を討うとし、幕府も成氏の遣り方を憎んでこれを援け、これから開東は上杉氏を足利氏との両派に分れて永い間戦争が続いた。

成氏は鎌倉を逃げ出して下總の古河に走って陣容を整へて古河公方といふやうになった。成氏は関宿、野田の両城を羽翼とし更に武蔵の一部分を其の配下として準備怠りなく、上杉氏は鎌倉を根拠として武蔵の諸所に城砦を築いてこれに対抗し両派衝突の第一戦は愈々我が武蔵野に於て開かれた。

第百一代後花園天皇の康正元年に成氏は大兵を率いて大里郡岡部原に陣して上杉勢と戦ひ更に軍勢を引き返して北埼玉郡の騎西城を陥れた。その翌年成氏は大里郡深谷城の出来たの聞えて再び岡部原に陣してこれを陥れた。此の如く上杉氏が上武の地で激戦せる時に当つて、先きに川越市仙波の館に退隠した扇谷家の持朝は川越城を築いてこれに拠り、入間郡越生に居った太田資清も亦南埼玉郡岩槻城を築いた。これ等は何れも山内上杉勢と連絡して古河に対する重要な城であった。

古河両上杉の対抗は容易に勝負が決しなかったから、幕府は古河を制するに足るべき勇将の渋川義鏡を開東探題として北足立郡の蕨城に遣はした。御土御門天皇の文正元年に幕府は山内房顕をして一万余騎を率ゐて児玉郡東五十子に立てこもらせた。成氏はまた古河から出かけて北埼玉郡の羽生や忍を経て東五十子に迫ったが其後間もなく講和し、此に於て関東の擾乱は一度其の局を結ぶことになった。

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