川越の役
北条氏康
古河上杉両派の争は十七年間続いたが、其後両上杉の争に代って遂に弱肉強食の有様となった。当時北條氏に早雲といふ者があり相模の小田原城を根拠として頻りに開東を併呑する計画をめぐらして居った。幸ひ両上杉の争があったので早雲は扇谷上杉の定正を助けて山内上杉氏と比企郡八和田村の高見原で戦ったが早雲の死後氏綱の時には両上杉氏を敵として覇を争ふに至った。
第百三代後柏原天皇の大永四年に氏綱は江戸城に居った扇谷朝興を攻めて川越城に走らした。朝興の子朝定は山内上杉の憲房と結んで父の讐を晴さんごし、大いに氏綱に当らうとしたが、後奈良天皇の天文六年に又も川越城を襲はれてとうとう比企郡松山城に逃げてしまった。此の城には上杉氏の身方で入間郡南畑村の人難波田弾正が守って居って、さすがの氏綱も貶入れることが出来ず川越城には北條綱成を置いて自らは小田原に帰った。これから上杉氏は両家の聯合を堅くし、その上先きに敵であった古河公方を仲間に入れて武運を常陸の鹿島神宮に祈って川越城の回復を計画して居った。
愈々天文十五年四月上杉氏は関東諸州の兵を集めて川越城の攻略を始めた。綱成は急に援けを小田原に乞ふたから、氏綱の子氏康は八千の精兵を率ゐて川越の南の福原村に陣し、八万の上杉勢を美事に打破り、績いて松山城まで陥れた。
こゝに於て朝定は戦死し難波田弾正は古井戸に落ちて死し憲政は上州に逃げてしまって武蔵は北條氏の計画通り占領されてしまった。