武蔵七党
武蔵は大國なれば平安朝の始めから権門勢家の私領地が多く、所有主は大低人を遣はして管理させて居った。處が彼等は各地に土着して源平両氏の爪となり牙となって活動し始めた。武蔵七党はそれである。
七党とは横山党、猪俣党,村山党,西党、児玉党、丹党,野与党で、後には二百有余の小党に分れて武蔵を中心として、北は上野から南は相模の間に拡がりなかなかの勢力であった。
七党の中我が埼玉県に居りしは猪俣,児玉、丹、野与の四党である。猪俣党及び児玉党は児玉郡の地に勢を振へ、平治の乱に悪源太義平に従って十七騎の一に数へられた、岡部六弥太忠澄も、或は猪俣小平六則綱も、或は承久の乱の文博士藤田三耶も猪俣党の出である。丹党は入間郡飯能町附近一帯に居を占め、木曾冠者義仲の落ち行くを呼び止めて決戦した勅使河原権三耶有直と,延元の忠臣丹三郎忠重とを出した。其他一の谷合戦の際真っ先に敵陣に飛び込んだ武者所季重は西党より出で、宇治川の戦に殊功を立てた大串次郎重親は横山党より出で、源義経に従って勇名を轟かした金子十郎家忠は村山党より出た。
何れも武蔵武士の本領を発揮した勇士である。