埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

各藩の配置

小田原の役の功によって徳川家康は天正十八年八月一日江戸のに乗り込んで二百六十万石の大名となった。先づ功臣を関東の諸城に配置して経営の基礎を作ったが、特に我が県は江戸城の膝下にあり、尚中仙道、奥羽街道等の要路に当って居るから、身内のものや譜代の大名を封じた。即ち小笠原信嶺を本庄城に、酒井重忠を川越城に、松平康直を深谷城に,松平家忠を忍城に、松平康重を騎西城に、高力清長を岩槻城に,松平家広を松山城に、松平清宗を八幡山城に封じて江戸の固めとした。

慶長八年家康は征夷大将軍に任ぜられて政権を掌握すると外様大名の勢をそぐために身内の者を各地に分封した。こゝに於て先きに封ぜられた県下の諸大名も忍、川越、岩槻等を除く外は大抵転封されてしまった。

忍藩は最初は一万石の大名であったか次第に増して十万石となり、松平家忠の後は松平忠吉、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋、松乎忠尭等で明治二年六月松平忠敬の時に版籍を奉還した。川越藩は初代の酒井重忠が一万石の大名であったが其後堀田正盛の七万石,松平朝矩の十五万石を経て松平周防守康英に至り養子康載の時に封土を奉還じた。岩槻藩は高力清長が二万石で封ぜられたが、其の後幾多の変遷があって大岡出雲守忠光が第百十五代桃園天皇の宝暦四年に入って其後八代目の忠貫のときに版籍を奉還した。

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