埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

太田三楽

天文十五年の川越の役から武蔵の大勢は小田原北條氏の制するところとなったが、この時上杉氏のために終始北條氏に反対して操を全うしたのは岩槻の城主太田資正である。

賀正は入道して三楽と号した。天文二十年に上杉憲政が氏康に攻められて越後の上杉謙信のところへ身を寄せた。時に三楽は安房の里見氏や、常陸の佐竹氏と通じて北條氏を破る計画をした。一方謙信は自ら関東に雄飛する考を持って居つたから大いに憲政を歓迎し愈々天文二十二年八月、上野の金山から北埼玉郡に入った。三楽は早くこれに応じたが忍城の成田長泰は先きに北條氏に降った為めに謙信に反抗した。依って謙信は水攻めにしやうとしたが成田氏は人質を送って和を乞ふたからこれを許して軍を引返した。

第百五代正親町天皇の永禄三年に雪深い越後國を出て武蔵に入り三楽を先鋒として小田原城に向った。当時大里郡鉢形城に居った北條氏邦は謙信の後を突かうとしたが謙信が小田原の囲を解くに及んでやめた。其の後三楽は安房に行って戦の相談をして居ったが岩槻城内に内和もめが起って、とうとう元亀元年に岩槻城を去り城は北條氏に降った。

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