太古の武蔵野
武蔵野は月の入ろべき山もなし、尾花が末にかゝる白雲
源通方
行く末は空も一つの武蔵野に、草の原より出づる月影
藤原良経
我が郷土たる武蔵野は直に月と草とを想像せるが大昔から草原ではなかつた。始めは千古不伐の原生林で中には幾多の水沢があり、湿地には亭々天を摩するやうな大木が一杯生ひ茂って居たのである。此處へ石器を使用する今日のアイヌの祀先が入り込んで来て、森林に住む鹿の群を狩ったり、海や沼で貝や魚を捕って生活して居った。
其後牧畜や農業を営む吾々の祖先がやって来て、原野又は畑地の必要を生じ殊に馬を盛んに飼ったので、火を放って森林を焼き廣大なる牧草地を作った。古い農家では自分の家を草分たといふのが、其處から石器や土器の類が沢山出るのを見るとそれ以前から数多の人が住んで居たことが知れる。
吾々の祖先は住所を森林深くに求めないで、海岸や河岸や池沼の辺りに構へたので今なほ諸所に遺跡がある。貝塚の如きは北足立、南埼玉、北埼玉に一番多く武蔵國だけでも百二十能箇所といはれて居る。又昔の人の墓である古墳は児玉、大里、比企、入間、秩父地方に多く、比企郡野本村の利仁塚や児玉郡秋平村秋山の塚原や仝郡金屋村梅原の百塚や大里郡吉見村の冑山塚や北埼玉郡埼玉村の丸葉山仝郡荒木村小見の観音山の如きは名高い。長らく穴居の跡であると傅へられた比企郡西吉見村の百穴は二百三十有余の横穴が一箇所に集って居るが今日は墓場であるといはれてゐる。