埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

熊谷直実

熊谷直実

鎌倉時代の初めに剛直無双にして、然かも血あり涙ある武士として、令名一世に高かったのは熊谷二郎直実である。直実は大里郡熊谷町の産で、祖先は桓武平氏である。

祀父平盛方の時に始めて熊谷郷を領し、父直貞を経て直実に至った。直実は小さい時に父母を失って,親戚の久下直光の家で養はれて居った。この頃熊谷町の附近は草原で、時々藪の中から荒熊が出で人々を苦しめた。そこで此の荒熊を美事に射殺した者は土地の旗頭にするといふ懸賞が出た。直実は当時僅に十六オの少年であったが、喜び勇んで熊狩に出かけ美事に射殺した。これから直実の勇名が知れ亘ったのである。

直実は成長の後京都に上り、保元の乱には源義朝に従って一騎当千の功を顕はし,平治の乱には義朝の子悪源太義平に従って待賢門の戦に平重盛の軍を敗りて奇功を奏した。彼の頼朝が伊豆に兵を挙げると直に其の幕下となり、元暦三年の宇治川の戦には、其子小次郎直家と共に義経の軍に従って、佐々木高綱と先陣を争つた名高い話がある。其の後一の谷の戦には、鵯越の険坂を駆け下りて敵陣を突き、遁げ走る無冠太夫敦盛を扇を挙げて呼び戻して互に雌雄を決したる後,首を大将義経の處に逡り首実検をせしに敦盛は十六オの少年であったので、大いに同情し義経に願って首を貰ひ受けて屋島の経盛の所に送り届けた。

其の後直実は久下直光と領地の地境争ひをして鎌倉に召された。直実は生れつきロ訥で自ら思ふやうに弁明することが出来ず、遂に証文を幕府の庭に投げ付けて、髪を切り馬に跨って京都の黒谷なる法然上人の下に馳せた。これから名を蓮生と改め、多年修業の後に故郷なる熊谷に帰った。これが熊谷寺の起りである。

此の他関東武士の芳名を残せる者に比企能企、葛西清重、川越重頼、斎藤貴盛,三保谷十郎,下河辺行平等がある。

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