知々夫國造と旡邪志國造
神武天皇の時、既に國造県主を置いて地方政治を司らしめられたが、未だ大和地方の一部に限られて全國には及ぼなかった。崇神天皇の頃になって皇威の拡張に件ひ地方制度もやや完備して来た。彼の思兼命の十世の孫である知々夫彦命が國造として秩父の地に遣わされたのは実に此の御代である。
次で第十三代成務天皇の時には全國六十三の國造があり旡邪志の國造は此の時北足立郡大宮町に置かれた。蓋し大宮は此の頃東國交通の中心地であって文化の程皮も余程進んで居つたらしい。
武蔵國の開拓は國造設置の状況から考へて見ると、最初秩父地方が開け次第に東部地力に及んだらしく、南埼玉、北埼玉、北葛飾の如きは、奈良時代まで海水深く湾入して所訓埼玉の入江をなして居った。それ故武蔵は地勢上から東山道に属して居たが、第四十九代光仁天皇の宝亀二年に東海道に属することになり今日に及んでゐる。
埼玉の津に居る船の風をいたみ、綱は絶ゆとも言な絶えそね。 万葉集十四巻東歌
埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽きる、おのが尾に降り置ける霖を掃ふとにあらし 同書九巻