平将門
第六十一代朱雀天皇の御代に興世王が武蔵の権守となり、源経基が武蔵の介となって共に東國にやって来た。時に足立郡の郡領に武蔵武芝といふ者があって永年人民に仁政を施して居つたから、令名四方に聞えて居った。
此處へ興世王が来たから武芝は喜ばず、頻りに反対し興世王も亦大に怒って兵を挙ぐるに至った。 将門は下總にあって密かに此の変を聞き「彼の武芝は己れの近臣でない、興世王も経基も我が兄弟の縁故がない、然し自分はあの紛争を鎮めやう」と急に武蔵の地に入って武芝に会った。間もなく将門の骨折によって武芝,興世王の講和は成り立ったが、武芝の部下はこれを知らないで経基の陣外を襲ふた。経基は大に驚き急に京都に還って、興世王、武芝,将門の三人が共謀して己を殺さうとし更に将門は謀反の意志あることを告げた。朝廷は将門に詰問せられたから、将門も武蔵、常陸、下總、上野,下野の五國から解文を出さしめて、自己の異志なきことを申上げた。然し後に将門が下總の猿島に拠って彼の承平天慶の乱を起すのは経基に誤解されたのが原因してゐる。
将門の滅亡後は、東國の平氏次第に勢力を失って源氏がこれに代った。源経基の子満仲は一度武蔵守となったが,実際源氏の勢力を扶植したのは其の子頼信の時からである。頼信は後一條天皇の御代に平忠常を下總に敗り,孫義家は後三年の役後東国武士の信用を得て益々源氏が勢力を得て来た。