小手差の戦
新田義貞
源氏の滅亡後は、実権は北條氏に移って、第九十六代後醍醐大皇の御代に北條高時が専横の振舞多かったから、天皇は大いにお憤りになりこれを滅さうと御計劃なされて勤王の兵をお集めになった。この時上野國に勤王の士新田義貞があって、直に大兵を率ゐて鎌介に入らうとした。高時は早くもこのことを知って、武蔵、上野の兵をして義貞に当らせた。義貞は意を決して、児玉郡本庄町の北方で利根川を渡り衝天の勢で武蔵に入った。南埼玉郡粕壁町の春日部時賢は此の時義貞の旗下に入ったのである。
鎌倉に居った高時は大いに驚いて、金沢貞将に五百騎ばかりを授けて北葛飾郡下河辺の渡より義貞の背後を襲はせた。叉桜田貞國に六万騎を授けて鎌倉街道を北進させて入間郡所沢町附近に至らせた。時に義貞は南進して入間川町より小手差原に陣した。激戦三十余回、両軍互に勝負あったが,久米川の戦には義貞の方に相模の三浦義勝が六千騎ばかりを率ゐて援けに来たので,高時の弟泰家の十万騎を美事に打破った。これから破竹の勢を以て鎌倉に進み、元弘三年五月二十五日鎌倉陥落となったのである。
其の後義貞の子義宗、義興は後村上大皇の御代に足利尊氏を討たんとして小手差原に陣し入間川原、高麗原に於て激戦して利を失ひ上野から信濃に退却した。富当時田氏を率ゐ給へる宗良親王が小手差原で詠じ給ひた御歌に
君のため世のためなにか惜しからかむ 捨ててかひある命なりせば
一度破れたる新田氏は義興ひとり再挙を図り正平十三年武蔵から鎌倉に進まんとしたが、多摩川の中流荏原郡矢口渡で壮烈な最後を遂げた。