埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

武蔵武士の興起

束國の人は由来義を尚び,事あるに際しては勇猛邁進し、額に箭は立つとも背には立てぬといふ有様であった。それ故昔から関八州は天下に敵すべく、武蔵一國は関八州に敵すとまで評された。されば奈良朝の初から禁衛兵として京都に徴され、或ひは九州地方を護る防人として活動し大いに開東武士の面目を施した。

足柄の御坂に立ちて袖振らば、家なる妹は亮に見もかも (埼玉郡の上丁 藤原等母麿)

色深く夫が衣は染めましを、御坂通らばまさやかに見ん (同人 妻 物部の刀自売)

平安朝に至って武士が各地に興るに及び、我が武蔵國にも起った。彼の平高望が上總の國守となり,其子良文、良茂は東國に勢力を張りて子孫は所謂坂東の 八平氏をなすに至った。 この頃嵯峨源氏の一人に源宛といふ人があった。父の仕の時武蔵守となって北足立郡箕田村に住んで居つたから箕田源氏ともいった。

時に平氏の一族である平良文は大里郡吉岡村に居って,村岡五耶と称し,源宛と共に荒川河原で覇を争ふたことがある。

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