埼玉県郷土史

大正15年9月20日発行
著者:鯨井寅松
国立国会図書館デジタルコレクション永続的識別子:
info:ndljp/pid/924862

忍城の水攻

石田三成

北條氏が小田原城を根拠にして開東に威を振ふことが五代九十余年の長い間であった。其の間上杉謙信や武田信玄が来て八州の地を蹂躙したが豊臣秀吉が起るに及んで忽ち平定された。

先づ秀吉は小田原城の北條氏直に使を送って上洛を勧めたが応じないので天正十八年四月に徳川家康、上杉景勝,前田利家、石田三成などの諸将を率ゐて武蔵に攻込んで松山城を囲んだ。城主上田暗楽斎は小田原に行って不在のため忽ち降参し川越城も岩槻城も鉢形城も激戦に至らずして降った。

忍城は山東七城の一に数へられた名城で行田、持田、佐間の三村に跨り平地城ではあるが沼や沢が四万を囲んでなかなか要塞堅固であった。

曾つて上杉謙信がこれを囲んで陷入るることが出来なかったが、秀吉は二万六干といふ大軍を向けた。寄手の大将は石田三成であるが本営を大宮口に置き其他長野口、北谷口、佐間口にはそれぞれ兵を配置して連日攻撃したが容易に近づけない。いよいよ三成は地勢を見て水攻の策をとり長野村の石田堤などを築いて利根川荒川の水をひいて湖水のやうに浸した。やがて城主の成田氏長と和歌の友達である山中山城守長俊が秀吉の手紙を持って降參を勤めて遂に天正十八年六月開城となった。

忍城が陥落すると間もなく騎西城も羽生城も菖蒲城も深谷城も児玉町の八幡山城も久下の砦もみな陥ちてしまった。小田原の氏直も七月五日に降參して相模國も、武蔵國も秀吉の領する所となった。

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